2020年06月01日

因果律と共時性

戦後に生きる私たちは、学校で、いわゆる“科学教育”を受けて現在に至っています。


私たちが日常生活において体験するどのような現象も、「原因があって結果が生じる」すなわち時間が経過するとともに現象が変化していく過程がテーマとなっているのではないでしょうか?


私たちの日常生活は、時間の経過に注目して、因果的に現実をとらえようとする『因果律』によって構築されているのが、常の姿だと言ってよいと思います。


金子みすずさんの詩『海とかもめ』をご紹介させていただきます。



 海は青いとおもってた、
 かもめは白いと思ってた。

 だのに、今見る、この海も、
 かもめの翅(はね)も、ねずみ色。

 みな知ってるとおもってた、
 だけどもそれはうそでした。

 空は青いと知ってます、
 雪は白いと知ってます。

 みんな見てます、知ってます、
 けれどもそれもうそかしら。



因果律を超えて、空間的にへだたった二つ以上のものの間に、同時に同調現象が起こることがあるものです。



ずいぶん前のことですが、私たちが仕事をしている職場の前に、道路をはさんで神社がありました。ある時、知人のU(仮名)さんが執筆された小説が芥川賞の候補に選ばれました。職場の2階の窓から、Uさんのことをイメージしながら、ぼーっと神社を眺めていると、車体に「U」という名を書いたトラックが通り過ぎていきました。Uというのは、ありふれた名前ではないものですからびっくりいたしました。



しばらくして家に用事を思い出し電話をしようと思ったところ、知人のMさんが新車に乗ってやってきました。車番を見ると、何と!我が家の電話番号と同じだったのには、またまたびっくりです。どうしてこのようなことが起こるのか、さっぱりわかりませんが、同調現象を引き起こすような“作用の場”としての空間が存在しているということになるのではないでしょうか?



そのような空間には、何らかのエネルギーが流れ働いていると中国人は考えたと言われています。『気』ですね。


古代の中国人は、大宇宙の中に、同時同調現象を引き起こすエネルギーの流れが存在することに着目したというわけです。宇宙空間に存在する事物相互の間に張り巡らされた見えない作用を念頭におき、世界を観察した結果、『共時的思考』が生まれたと考えられます。



心理学者のユングは、西洋科学の基本的な思考形式である『因果律』に対比される原理として、『共時性(シンクロニシティ)』という言葉で、その原理を科学的に表現したと考えられています。


西洋的な思考においては、自然に対して「何故そうなった」「これからどうなる」といった感覚で、創造から終末まで「時間の流れ」の中で『WHY?』が問われる“因果的思考”が主流であるのに対し、東洋的な思考においては、「世界の始まりも終わりも問わない。世界はどのように動いているのか・・・『HOW?』が問題」すなわち時間より空間が問われる“共時的思考”が顕著になるようです。



身体を場として、心理作用と生理作用が、因果関係としてではなく、同時同調的な関係で成り立っているというのが、東洋的な医療のベースとなる身体観と言えるのではないでしょうか?


空間に存在する事物相互の間に張り巡らされた見えない作用に即して世界を見るというわけです。「気」が主役を務めていることになります。「気」が全身にくまなく流れ、エネルギーを供給していくための基本構造として『経絡』のネットワークがあるというわけです。



この流れが停滞すると、心身の異常が発生することになります。


鍼治療は、『経絡』に沿って存在する『経穴』(ツボ)に刺激を与えることによって、「気の流れ」が順調になり、元気が回復するというメカニズムが働いているように思われます。



「気の流れ」は無意識の領域に属していて、感覚や顕微鏡によってその存在を確認できないだけに、21世紀に残された大切なテーマになるのではないでしょうか?



西洋の科学は、時間の経過に着目し、あらゆる現象を原因と結果という観点からとらえようとしたのに対し、中国では、空間に張り巡らされた見えない力に着目し、世界を観察したと考えられています。このようにして因果的思考と共時的思考が生まれたというわけです。西洋的な医療においては、身体全体を診察することによって、まず病気に名前をつけることから出発し、その原因を考え、それを除去する方法を考えていく、いわば攻撃型の治療という気がいたします。



一方、東洋的な医療においては、個々の器官の因果関係を基本として身体の状態を見るのではなく、気の流れの異常など、身体全体としてのアンバランスを観察することが基本となっているのですね。



東洋医療の診断では、病気に名前をつけるよりも治療の方法を明確にするという実際的な目的が先行しているのだそうです。


生体の気のアンバランスを回復し、身体内部にある自然治癒力を活性化することによって、自然に健康が回復されるところに、注意は向けられていると言われています。



気の流れは経絡に沿った多くの経穴(ツボ)を通して体外に流出あるいは流入していると考えられているそうです。「気」は宇宙にみなぎっている生命エネルギーと考えられていますので、環境との相関関係から切り離して身体のメカニズムを考えることはできないということになります。身体を環境から切り離さず、身体を開放系としてとらえているわけです。



気の運動を基本におくことによって、心理―生理―物理(精神―生命―物質)という三つの次元を通して、人間と自然の関係を主体的身体に即して見る、という一貫した見方に至るというのです。


参考文献:
*湯浅泰雄『身体の宇宙性』岩波書店(2012年)



【お知らせ】
いつもご愛読いただき、ありがとうございます。今月号の掲載をもちまして、「バンクシアの響き」の連載をしばらくお休みさせていただきます。

  


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2020年05月01日

土の力(3)

私どもは、美しく健やかに生きていくために必要な情報、知識、知恵をご提供させて頂くことを使命と心得、日々、活動させて頂いております。大切にしていることは、「場」の力を高め、「自然治癒力」を養い、心身を整えること・・・・・『極楽浄土』こそ究極の到達地点ということになります。



『極楽浄土』というと、どこか別世界のような感じがいたしますが、私たちが日々、生活しているこの現実世界においても、『浄土』すなわち清らかでエネルギーの高い『土』に囲まれて生活していくことが大切なこととして浮かび上がってまいります。



未来像(ビジョン)である“なりたい姿”を実現するためには、根っこすなわち土壌づくりが大切になってまいります。


たちが息を吸い、そして息を吐く・・・背後にあるのは、意識することもなく流れていく日常生活を陰日なたなく支えてくれている『土の力』『土のエネルギー』なのですね。



杜(もり)という字からは、無数の木のイノチを支えている土のエネルギー、肚(はら)という字からも、人のイノチを支えている土のエネルギーが感じられるのではないでしょうか?


「土壌」は単に、物理的な存在ではなく、その中に含まれている生物体と密接な関係にあるといわれています。生命を土壌に与え、また逆に土壌から生命を与えられる無数の昆虫やバクテリア、真菌などの生物体が大切な役割を果たしているというわけです。


「土壌」というのは、岩の分解したものと死んだ動植物が混ざったものを指しているのですね。



地球の岩石は、水と酸素そして生物の働きによって分解されます。土を生み出す現象も含めて風化と呼ばれています。


土には、細菌(バクテリア)とカビやキノコ(まとめて菌類)が同居していて、落ち葉を分解し、腐植へと変換しているそうです。新鮮な生物遺体が原形をとどめないほど細かく分解され、腐葉土となり、腐葉土はさらに変質して腐植となり、一部は粘土と結合するのだそうです。



「種」、それ自体はエネルギーが内に向いていて、土とのつながりは一切ありませんし、固い殻に囲まれていて、内向性としか言いようがありません。しかし唯一、「土」だけが種を発芽させ、花を咲かせる原動力となる・・・・考えてみれば不思議なことでもありますね。


どんなに素晴らしい花を咲かせることができるプログラムをもった生物も土がなかったら発芽して成長することができません。土壌があってはじめて種は成長できるというわけです。梅は梅、桜は桜として発芽し、成長し、大きな樹となり、花を咲かせる・・・・すべてバランスのとれた風土あってのことなのですね。



『土』には「自我」が存在せず、受け身であって、自分から何かしようとは思わない・・・・すべて相手の力、技、祈り任せ、“どうぞ、お好きになさいなさい”というわけです。種の中に潜在しているエネルギーが土の中で開放され、他の有機物とそれらを分かち合うことによって、樹となり花が咲くというわけです。



「イノチ」というのは、この瞬間に生きていくエネルギーを供給してくれているのですね。


眼も爪も肌もすべては、この瞬間に供給されたエネルギーを受け取り、自然の摂理に従って役割を全うしているというわけです。



土は、どこか日本人の特性と似たところがあるようです。思いやりがあって、相手の状況をまず想像しますね。そして「個」の都合より全体を優先する傾向もあるようです。外部環境に対して深く関心をもつ民族ではありますが、自ら種を創り出すことは苦手な民族なのかも知れません。


しかし、日本人は、土の中に潜む種のように、他の存在とエネルギーを分かち合い、調和しながら、“宇宙の意思”を表現する能力をもともと備えているような気もいたします。



宇宙の意思


さて、人間は宇宙の根源的な力によって生かされていると言ってよいと思います。宇宙を構成している要素、すなわち『無限の力、無限の智、超微粒子』は、人間を構成している要素『体力、知力、気力』の原点としての役割を果たすものですから、宇宙の力を体内に集束し、目的に向けて放射することが大切になるのではないでしょうか?


そのために“呼吸”を通して宇宙の中に溶け込んでいくことが大きなテーマになるように思われます。


すなわち丹田(腹壁と背中の中間あたり)に意識を集め、丹田めがけて空気を吸うと、横隔膜が下がり肺底まで空気が行きわたり、腸に大量の血液が集まってくると言われています。いよいよ『気』の働きが本番を迎えることになります。


『気』とは何かについて明確に定義することは容易ではないと思うのですが、『万物の秩序に浸透し、流動している形なきエネルギー』という観点から、『気』の働きについて考察してみることにいたします。


日常生活において、『経絡』『経穴(ツボ)』『丹田』『チャクラ』といった表現に出合うことがよくあります。私などの素人には、明確に理解することは難しいものだと思うのですが、常日頃、虚空から頂いている生命エネルギーの基本的な働きをつかさどっている大切な器官であることを、何となく感じているのではないでしょうか?


コツコツ生きていると、宇宙直結の器官を通して、“私たちの計らいを超えた力”が働くものなのですね。



一見何の関係もない二つの偶然の出来事が、それを体験する人には、何か意味のあることのように感じられる―――そんな“偶然の一致”が起こることがあるものです。心理学者のカール・ユングによってシンクロニシティ(共時性)と名付けられたことはよく知られていますが、ユングは「人間の心の奥には、すべての人に通じる無意識の層があり、さらにその奥には、自然界につながる心の領域がある」としてその領域を“類心的領域”と呼んだのだそうです。「自然界においては、過去に存在した同じものの“形の場”から“形の共鳴”という強烈な作用を受ける。その伝達にはエネルギーの伝達を伴わない」というのです。



たとえばキリンの首が長いのは、長い首の「形の場」が形成され、それと共鳴して長い首のキリンが誕生する。二度あることは三度ある・・・・・というわけで長い首のキリンが生まれるのだとか。



『私たちと深いつながりをもっている自然界そして宇宙といった存在(サムシンググレート)が、無意識を通じて私たちに働きかけるから“偶然の一致”は起こる。したがって“偶然の一致”には意味がある。それは自分だけにあてられた貴重なメッセージなのだ』というのは大変興味深い見方ではないでしょうか?

  


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2020年04月01日

土の力(2)

「土」をテーマとして、気になることをお伝えしたいと思い、あれこれ想いを巡らしていますと、「地球」という言葉が浮かんできました。


いま、気づいたのですが、「地」という字は「土なり(也)」と書きますね。当たり前のことですが、「地球というのは“土の球”である」ということに気づかされたという次第です。



「日本語には、微妙な気遣いが感じられるなー」と思うことが時々あります。


ここに、固い殻で身を守っている何かの種があるとします。この種を板の上に置いておいても何事も起こりませんが、土の中に埋めてやりますと、やがて固い殻が破れて、梅なら梅、桜なら桜が芽を出し大きな樹に育きます。「そんなことは当たり前」ということなのかも知れませんが、考えてみれば何とも不思議なことではないでしょうか?



明治以来、私たち日本人は、主として西洋由来の唯物論を主軸とする教育を受けて育ち、今日に至っていると言ってよいと思います。唯物論から少しはみ出すと、宗教臭いと言われたりするので、ついつい唯物論の枠組みから踏み出すことができずにいた、という現実があったような気がいたします。


そんな小さな枠組みにこだわるのはやめにして、新鮮な発想で楽しい日々を送りたいものです。ところが、私たちの日常生活には、何だかんだと小難しいことが沢山あって、隣の部屋に行くのにも固い扉でふさがれているという状況に出合うことがあるものです。



一方、人の内面には、肉体や思考、感情を超越した純粋な「可能性の場」が存在し、この「場」には不可能の文字はない、だからこの「場」を活用すればよいということになります。


何だか大変難しそうに聞こえるかもしれませんが、自然全体に「偉大な知性」が行き渡っていて、魂を通してその知性が現れてくる―「関心と意思」さえあれば簡単に扉を開くことができる―とも言えるのではないでしょうか。



「生きる」とは「場」を整えること、そして心が「内なる場」、コミュニケーションが「外なる場」ということになります。



さて、この「場」というものを考える上で、「存在レベル」についての視座をもつことが大切になると思われます。


その存在レベルには次のような3段階があると考えられるのではないでしょうか。


①第一の存在レベル=『物理的な領域』


『物理的な領域』とは、私たちが日常生活で直面している場のことになります。家庭や職場、人やモノが集まるところです。



②第二の存在レベル=『エネルギーと情報の領域』


『エネルギーと情報の領域』は、実体がないものですが、“張りつめた空気”“リラックスした安らいだ空間”などの言葉で表現されます。情報の中身はエネルギーのもつ振動数で決定されると考えられます。たとえば、喫茶店でお茶を飲みながら話している―――物理的な状況は同じでも、場によって、そこに流れる雰囲気が全く異なることがありますね。



③第三の存在レベル=『可能性の領域』


『可能性の領域』とは、物質を構成する極微小な構成要素である電子が、粒子として観測されるか、波動として観測されるか、人間の意識によって決定される場(※)のことを意味します。すべてのものの背後に“組織化する力”が存在すると考えられます。
※観測問題ともいわれる



『天の気』『地の気』『人の気』


さて“土”に話を戻すことにいたしましょう。


種というのは、固い殻に覆われていて、内向性すなわちエネルギーが内に向いていますね。他のものとのつながりは一切ありません。唯一、土壌すなわち“土”が種を発芽させ、花を咲かせる原動力です。美しい花を咲かせることができるプログラムをもった植物も、“土”のお蔭で見事に成長していきますね。



“土”は受け身、自分で何かしようとは思わない、すべて相手任せ。自我は存在しませんね。それでも梅は梅、桜は桜として発芽・成長し、大きな樹となり、花を咲かせます。



『イノチの力』はすごいのですね。私たちの眼も爪も手も足も、すべては、この瞬間に供給された宇宙のエネルギーを受け取り、自然の摂理に従って、その役割を全うしているのですから。



自分がなりたい姿、本質はすべて自分の種の中にあり、「天の気」「地の気」を受けて、土がそれを実現してくれるというわけです。


人間の子どもも泥んこ遊びが大好きです。裸足で土の上を走り回り「地の気」を浴びて大はしゃぎです


筍をはじめ、土から出てくるものは食べると美味しいですね。土から掘り出して時間が経つと、「気」が抜けてスカスカになってしまいます。



鹿児島県の最先端で玄米黒酢がつくられています。陶器でできた大きな甕に玄米と水を入れ、土の中に埋めて長期にわたって熟成されるのですが、人手を加えず一年、二年と月日が経つうちに、微生物の力で発酵がすすみ、エネルギーあふれる美味しい黒酢が出来上がるのです。


微生物を活性化する土のエネルギーのすごさにびっくり仰天させられます。



土について、このように思いを巡らしていますと、日本人の特性と共通する点がずいぶんあるなー、ということに気付かされます。


日本人は“「個」の都合より先方の都合を優先する傾向がある、自主性に乏しいのではないか。もっと自分を主張しないと・・・・”という意見をいろんなところで聞いたものです。


しかし思いやりをもって、全体そして相手の喜びとなる状況をイメージしつつ接していると、自分がなりたい姿(潜在意識すなわち“種の中にあるもの”)がエネルギーを得て現実化していく、ということが起こるのではないでしょうか?



人間関係の中で、いつしか『天の気、地の気、人の気』が働いて種が芽を出し、相手ともども望ましい現実が姿を現す・・・・そこにこそ日本人の本質を見出すことができるのかもしれません。

  


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2020年03月01日

土の力(1)

私は10代から20代にかけて、京都市の繁華街・四条新町の辺りに住んでいました。退屈すると、自転車に乗って、祇園から御所、上賀茂、そして嵐山などあっちこっちに出かけ、暇をつぶしたものです。


30代のある時、ある人から「近藤さん、御所ではセミの死骸が見つからないそうですね」と声をかけられました。そんなことは意識したこともなかったのですが、“そう言われると、御所でセミの死骸を見た記憶がないなあ。ミンミン、ミンミンとうるさいほど蝉の大合唱が聞こえてくるのに。どうしてだろう?”……と、それ以来、このことが心の底で、ずっと気になっていました。



ある時、キリスト教を育んだヒューマニズムの語源“フムス”は、腐植土(=土)のことを意味する言葉であることを知りました。人はこの世に生まれ、しばしの間、大地にへばりつき支え合って生きていくことにも、大きな意味があるのだなあと気づかせていただいた次第です。


アスファルトは合理的で便利なのですが、ある時、土の上で飼育していた鶏の卵とアスファルトの上で飼育していた鶏の卵を比べてみると、その品質に明確な差があるということを知りました。


その後、注意深く接していると、アスファルトにはイノチを光り輝かせる力は、あまりないのだということをいろんな場面で体験し知ることになりました。と申しましても、アスファルトを使わないでおこうということを申し上げたいわけではありません。ケースバイケース、必要に応じて使い分けていけばよいと思うのです。



私どもの会社は、近鉄“高の原”駅の近くにあるのですが、“原”の語源は“波羅”すなわち“極楽浄土”なのだそうです。少しでも極楽浄土に近い空間で仕事がしたいものですし、お客様にもそんな空間にお越しいただきたいと願っています。


“高次元エネルギーの降り注ぐ清らかな『土』”をイメージし、駐車場には、アスファルトを敷き詰めることなく、『土』の駐車場にして、皆様方のお越しをお待ち申し上げている次第でございます。



都会の景観にしても、20世紀に目立つのはコンクリートの建物ばかりでしたが、今世紀中には、木のビルディングも開発されるのではないでしょうか?



人のイノチと“土とのかかわり”


2025年の大阪万博は「いのち輝く未来社会をデザインする」をメインテーマとして開催されるのだそうです。人間のイノチというのは、体、脳、心が一体となって存在する『全体の力』でありますし、決して部分の和として存在するものではありません。


人は、「今ココ」をトータルに生きていますので、爪にしても、眼、血液にしても、イノチのエネルギーを受けて、この瞬間にすべてが同時に形成されますね。



ところが病気というのは、「胃が悪い、足が痛い、心臓がどきどきする」など部分がテーマとなることが多いように思います。


そこで私どもでは、「病気を治して元気になる」という表現ではなく、「元気になれば病気は治る」ととらえています。



『元気』とは一体何なのでしょうか?


たとえば腰が痛いとします。そんな時、何故か意識することなく腰に手を当てますと、滞っていた『気』が巡り出し、気持ちよくなることがありますね。


私たちが健康なときには、そんな眼にみえない『気』が流れていて、何の問題もなく日常生活を送ることができるのですが、病気となるとそうはいきません。頭が痛いということは、頭に『気』が集まり滞っている状態ですし、腰が痛いというのは、腰に『気』が集まり滞っている状態を意味しています。


『気』という観点から考察いたしますと、病気というのは、“『気』を病む”こと、すなわち『気』が滞って、スムーズに流れない状態を指しているということになります。



中学生の頃、動物園の裏を流れている川(私たちは疎水と呼んでいました)に泳ぎに行ったものです。いま思うと、けっこう危険なところだったようで、渦が巻いている所もありました。渦に近づくと引き込まれるのですが、渦に巻き込まれるのが楽しくて、渦と遊んだものです。巻き込まれている最中に渦から出ようとしてもなかなか抜け出せないものですが、渦にまかせていると、ひとりでに抜け出ることを体験しました。


私たちの人生においても、渦に巻き込まれるような感覚を味わうことがあるのではないでしょうか? イノチをあるがまま、起こるがままに生きることが大切なのだということを思い出している次第です。



人のイノチを考える時、非常に大切なことは“土とのかかわり”だと思うのです。私の若いころ、「日本には道路がない」という言葉をよく聞いたものです。舗装されることなく、“土”むき出しの道がずーっと続いていました。京都から大津に出て近江舞子から萩ノ浜あたりまで自転車で出かけたものですが、雨の後など、道は泥だらけでずいぶん苦労したことが思い出されます。


舗装された都会に住んで便利な生活を送っている私たち現代の大人から見ると、泥だらけの道は大変ですが、子どもは違いますね。泥が大好きらしく、ちょっと目を離すと、ニコニコしながら泥だらけになって帰ってきますね。



私たち現代人は、土から離れて、コンクリートが当たり前という世界に住んでいますので子どもの世界がわからなくなっているのだと思います。子どもたちは裸足で、汗びっしょり・泥だらけになり、駆け巡っています。そうすることで、大自然から本物のエネルギー『天の気』そして『地の気』が供給され、元気に育っていくということになるわけです。


先述の大阪万博のテーマが「いのち輝く未来社会をデザインする」というのは非常にタイムリーだと思います。人間は「体と心と脳」が一体となって存在していて、「部分の和」が全体として存在しているのではないということですね。


私たちは、ついつい「足が痛い、胃が悪い…」などなど、体の部品に焦点を当てて健康を追求しがちですが、イノチというのは、体と心を区別することなくこの瞬間に生きていくために必要なエネルギーを供給してくれている、というのはすごいことだと思うのです。爪にしても、眼にしても、血液にしても、この瞬間に供給されたイノチのエネルギーを受け取り、自然の摂理に従って、その役割を全うしてくれている……“土とのかかわり”の中で、見えてくるものがまだまだたくさんあるような気がいたします。


  


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2020年02月01日

植物と人

私どもは『“元気の力”を暮らしに生かす』を社是とする会社でございます。この社是を実現するために必要な情報、知識、知恵、そして商品をご提供させていただくことこそが使命と心得、日常業務を遂行させていただいています。


明るく楽しくイキイキと生きていくために必要な“元気の力”は、すべての人に等しく与えられているようですが、“どのような人生を生きていくか”という根本的なテーマにかかわる人生プログラムのあり方は、生まれてくる人の特性に応じて、多種多様に展開されるように思われます。


とするなら私たちが生活しているこの宇宙、この地球では、すごいことが起こっているということになりますね。


138億年前に、この宇宙は誕生したと言われています。人間も含めてすべての存在物は、宇宙の設計図にもとづいて生成発展・進化し、現在に至っていると思われます。そして人間には、宇宙の叡智とその宇宙を創造したエネルギーを認識し、使いこなすことによって進化していく力、すなわち“元気の力”が与えられていると言ってよいと思います。



鉱物→植物→動物→人間へと進化成長していった足跡が、人体に刻み込まれています。カルシウムやマグネシウムなどの鉱物は、そのまま人体にインプットされ、大切な役割を果たしていますね。


海岸で松の木が、岩に直接生えているのを見たことがありますが、植物がイキイキと育っていくためには、“土”の働きが欠かせません。岩石に地衣類が働きかけて土壌が形成され、そこに植物が育つという地球進化のメカニズムが働いているのを感じました。



金子みすゞさんの詩“草の子”が土の力強さをしなやかに表現しています。



母さん知らぬ 草の子を
  何千万の草の子を
  土はひとりで育てます
  草があおあお茂ったら
 土はかくれてしまうのに



土はイノチの源泉なのですね。


木と土が 一 つになると、杜(もり)になりますし、人間の場合、肚(はら)になります。


“肚”というのは、おへその下に位置し、丹田と呼ばれているように思います。“丹田”という言葉は、私の子どもの頃には、大人の人たちが、日常的によく使っていたように思います。


親父からよく「丹田に力を入れろ」とハッパをかけられたものです。大地の中心、すなわちイノチの源泉に投錨するような感じを受け、シャキッとしたものです。


何でも“科学の言葉”で表現しようとする現代社会においても、丹田をはじめ、経絡、経穴、ツボ、チャクラなどという言葉はよく使われています。ひょっとすると、私たちが学校で習うエネルギーとは違う次元のエネルギーが流れている器官なのかも知れませんね。



今になって思うのは、“肚によって、人は自然の根源力と結ばれる”ということです。


子どもの頃、指圧の名人と呼ばれているおばちゃんがおられました。下腹部すなわち丹田に手を当てて、時には無駄話をしながら、じっとしておられるだけなのですが、ものすごく楽になると大評判でした。



人の身体には、鉱物由来のミネラルが重要な役割を担って存在しているのですが、人体を構成する組織としては、植物性器官と動物性器官に分類することができます。


植物性器官は、栄養と生殖にかかわっています。すなわち、口から始まって、胃・腸を経て肛門に至る栄養を吸収する器官を指しています。それに付随して働く肝臓、膵臓、肺、そして吸収した栄養を運搬する心臓と血管が含まれます。


生物としてのヒトの植物性器官は、それがあるだけで個体の生存が可能で、子孫を残していけるようにできています。


しかし動物は食糧となる栄養物を見つけて(感覚器官)、脳を介して伝達し、筋肉を動かして食べに行く必要があります。じっと待っていては飢え死にしてしまいます。


眼、耳、鼻、舌、皮膚によって感覚し、神経によって脳に伝達し、手足の筋肉を動かして餌をとりに行く……これが動物性器官の役割です。



ストレス社会と植物性器官


私たちの自律神経は、緊張をつかさどる交感神経と弛緩をつかさどる副交感神経が絶妙なバランスを取りながら、内臓をはじめ、人体の内部環境を整えるという重大な役割を果たしてくれているといわれています。



海で誕生した原始の生物は、副交感神経だけで生活しているということが、ナメクジウオの研究によって明らかにされています。さらに行動範囲が広くなり、身体も大きくなると、副交感神経だけでは間に合わなくなって、生物は交感神経を新たに作り出したのだそうです。


ところが生物が海水から淡水に進出すると、さらに大きなエネルギーが必要になりました。そこで彼らは、動物性器官を構成する神経細胞を極端に多くして、中央に集中することで巨大な脳構造を作り上げたのでした。



このようにしてヒトは、他の生物では及びもつかないエネルギーを獲得して、進化の頂点に立つことに成功したというわけです。と同時に、ヒトの植物性器官は、動物性器官が集中している大脳の支配下に置かれることになったというわけです。


皮肉なことに、人間のつくり出した社会が、強烈なストレスを生物としてのヒトの大脳に与え続けるという奇妙な悪循環を作りだしてしまったのでした。高度なストレス社会で苦闘する現代人に必要なことは、植物性器官を活性化することと言ってよいと思います。



人が元気で生きていくためには、自律神経を構成する2つの神経すなわち交感神経と副交感神経が素晴らしい調和をもって働くことが何よりも大切になってきます。ところが近年、人間関係はじめ、さまざまなストレスの影響を受けて、自律神経のバランスを崩す人が増え続けていると言われています。


自律神経は内臓をはじめ、人体の内部環境を整えるという重大な役割を果たしているのですが、人間の意思を超えて自動的に設定されていますので、いざ不調となると手の打ちようがないように思えてきます。



病気になる前に自律神経を調えることによって、明るく楽しい日々を送りたいものですね。

  


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2019年12月01日

マツと故郷(ふるさと)

グローバル化と情報化がものすごい勢いで進展しているように感じられる現代社会ですが、私たち一人ひとりが依って立つイノチの基盤は、意外に脆弱なのかも知れません。


スウェーデンの少女グレタ・トゥンベリさん(16歳)は2019年9月にニューヨークで開かれた国連の気候行動サミットで「あなたたちは、金のことと永遠の経済成長というおとぎ話だけを話している。好むと好まざるとにかかわらず、変化が訪れようとしています。温暖化がもたらす大きな自然災害を前にして、おとぎ話をしている場合ではありません。」と述べ、世界の注目を集めています。



私たちも日本という風土に伝わる“故郷”の現状を再認識する必要に迫られている、と言ってよいのではないでしょうか?



故郷(ふるさと)


“故郷”と言うと、子どものころ、よく歌った『故郷』という歌を思い出します。



(1)兎追ひしかの山、
    小鮒釣りしかの川、
    夢はいまもめぐりて、
    忘れがたき故郷
(2)如何にいます父母
    つつがなしや友がき
    雨に風につけても
    思ひいづる故郷
(3)こころざしを果たして
    いつの日にか帰らん、
    山はあをき故郷
    水は清き故郷



なんだか子どもの頃のことが浮かんでくるのではないでしょうか?


そして私の若いころ、三橋美智也さんが声量たっぷりに『赤い夕陽の故郷』という歌を歌っておられたのが思い出されます。50年ほど前のことです。



(1)おーい
    呼んでいる 呼んでいる
    赤い夕陽の故郷が
    うらぶれの旅を行く
    渡り鳥を呼んでいる
    ばかな俺だがあの山川の
    呼ぶ声だけはおー聞こえるぜ
(2)呼んでいる 呼んでいる
    赤い夕陽の故郷が
    なつかしい面影の
    ひとつ星もまたたくよ
    小麦畑はふたりの夢を
    ひそめているか
    おー 今もなお
(3)呼んでいる 呼んでいる
    赤い夕陽の故郷が
    涙ぐみ背伸びする
    渡り鳥を呼んでいる
    雲よ行くならおふくろさんに
    思いをせめて
    おー乗せて行け
    おーい



学生時代、夏になると海や湖が恋しくなり、マツの生い茂る岸辺にテントを張って、のびのびした数日間を過ごしたものでした。


最近になって、松林の生態に関する貴重な書籍(小山晴子「マツが枯れる」秋田文化出版)のことを思いだしました。瑞々しく活気のある社会づくりのお役にたてればと思い、以下概略をご紹介させていただきます。



砂防林


日本海に面した何百キロにも及ぶ海岸線に、江戸時代の人々はマツを植えたのだそうです。


何故マツを植えたのでしょうか?それまでは、海岸線あたり一面ボウボウとした砂の山で、風が吹くと砂が飛んで飛んで手が付けられなかったのだそうです。ひと冬で屋根が埋まってしまうという凄さ…“砂が飛ぶ!家が埋まる!”……砂が飛ぶさまは「砂丘が海からまるごと歩いてくるようだ」と書かれている記録もあるそうです。すごいですね!



秋田藩が藩の事業として、砂を止める林――砂防林の育成に乗り出したのは、18世紀の中ごろから19世紀の初めにかけてのことだそうです。19世紀の中ごろまでには、造林事業はほぼ完成し、海岸線はクロマツの濃い緑のベルトで縁取られ、人々は砂との戦いに勝利したと伝えられています。



ところがこんなことがありました。松林を守る砂の丘と波打ち際との間の砂浜に、糞尿の処理場ができたのだそうです。すると、処理場の近くの若い松林が次々と枯れ始めたのだそうです。クロマツは肥料分の豊かな土地が苦手で、岩だらけの肥料分の少ない、他の植物が敬遠するような土地が住みかなのだそうです。そう言えば、岩の上に生えているマツを見たことがあります。私の知人に岩松という人がいましたし、講談や浪曲でおなじみの「森の石松」という人も有名ですね。



能代の浜には、150年以上も前に植えられたクロマツが今もまだ元気に残っていて、町を砂から守っているのだそうです。しかし、この百年松は、ただ放って置かれて生き残ってきたものではありません。



「松林百年」という言葉があるそうです。百年、すなわち三世代たつと人々はマツのことを忘れてしまう、という意味なのだそうです。“親の代は飛砂に苦しみ、苦労を重ねてマツを植えた。子はその話を親から何度も聞かされ、マツを大事にした。しかし孫の代になると、記憶は薄れ、人々の心から砂防林は消えてしまう。そしてそれにつれてマツは枯れ、松林は消滅してしまう”というのです。



大正の終わりの頃に迎えた「松林百年」の危機は幸いにも食い止めることができた。人々は識者の警告に耳を傾けて、もう一度マツを見直し、保護の手を差し伸べた、ということなのだそうです。そしてその時から、まだ50年しか経っていないのに、松林はまた再び危機にさらされているというのです。



小山晴子さんは地元の中学生にこの事実について話してみたそうです。



すると「今年の文化祭で、松林のことをもっと調べて、まとめて発表しようよ。みんなに知ってもらわなければ」「『マツを守れ!』っていうポスターをみんなで書いて、バイパスに貼れば、先生!」


……“中学生たちは、私よりもっと前を見ているようだった。植物たちと人間とが共に生きる道を探すために私は、もっと、もっと、皆に語りかけていかなければならないと思った”……と小山晴子さんは述べておられます。



参考文献:
*小山晴子「マツが枯れる」秋田文化出版


  


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2019年11月01日

シンクロニシティ時代の到来

1983年のことです。私たち夫婦と当時7歳の息子と4歳の娘の4人は、京都駅前のホテルで食事をした後、近鉄電車に乗って我が家に向かっていました。少し空いた席に、ウトウトと眠りかけた息子を座らせ、小さい娘を私たち夫婦の間に立たせ、私は「百番目のサル」という本を興味深く読んでいました。



“百番目のサル”現象


1952年、宮崎県の日南海岸公園内にある幸島で、科学者たちは、餌付けのために、サツマイモを砂浜に投げ与えていました。サルたちは、このサツマイモの味がとても気に入ったようでした。


しかし、そのサツマイモにくっついた砂っ気は、あまり気に入らないようでした。ある日のこと、“いも”という名の、生後18ヶ月の雌ザルが、砂のついたサツマイモを近くの浅瀬で洗うことによって、その問題は解決するということを発見しました。


彼女はその“トリック”を、まず母親に教えました。また彼女の遊び友だちも、すぐにこの新しい方法を覚え、遊び友だちの母親たちもまた、子どもたちからそれを学びました。



日本の科学者たちは、このサルの文化的な発明が、様々なサルたちによって真似られ、徐々にとり入れられていく様子を、目の前で観察することができました。


1952年から1958年にかけて、若いサル全員が、この砂のついたサツマイモを洗うことによって、もっと食べやすくするという方法を身につけました。


おとなの間では、自分の子どもを学ぶことのできたおとなだけが、この社会的な革新ともいえる新文化を習得しました。しかし、子どもたちを真似ようとしなかったおとなのサルたちは、依然として、砂がついたままの汚れたサツマイモを食べ続けていました。


ところが驚くべきことが起こったのです!



1958年の秋には、正確な頭数は報告されていませんが、幸島のサルたちの中に、食前にまず洗うという習慣を身につけたサルが相当数いることが、科学者たちによって確認されていました。


さて、ある朝、太陽がのぼったときに、幸島の99匹目のサルが、サツマイモを洗うということを知った、とします。そして、その日の昼近くになって、“百番目”にあたるサルが、サツマイモを洗うことを学んだとき、まさに、その瞬間に・・・・突然それは起こりました!


その日の夕方までに、その群れの中の、ほとんど全部のサルたちが、サツマイモを浅瀬に持っていって、洗いはじめたのです。


この百番目のサルが新しく加わることによって生じたエネルギーが、どういう理由か、私たちの概念―いうならば“常識”を、突き破ってしまったのです。


そして、じつに問題は、それだけで終わったわけではなかったのです。


日本の科学者たちによって観察されたもっとも驚くべき“現象”というのは、そのサツマイモを洗うという習慣が、その後、自然発生的に“海を越えた”という事実です。


他の島のサルの群れたち、さらには大分県の高崎山に棲むサルの群れも、彼らのサツマイモを洗いはじめたのです!



空間的な共鳴・同調現象の広がり


“百番目のサル”の物語にすっかり魅せられて夢中になって読んでいたのですが、気がつくと、4歳の娘がウトウトと眠り始めました。仕方がないので、本はやめにして「抱っこでもしてやるか」と思って、7~8メートル先のシートに目をやると、おじさんの横に、子どもなら座れるくらいの席が空いていて、そこに一冊の本が置いてあるのが眼に入りました。



そこで「あの本をおじさんに渡してスペースができれば、娘を座らせることができるのではないか」と思ったその瞬間、私たちの前の席で、グーグー眠っていた息子が、サッと立ち上がり、その席めがけてすたすたと歩き始めたのです。


そしてその本をおじさんに渡し、そこでグーグー眠りだしました。「百番目のサル」と同じことが人間にも起こるということを彷彿とさせられる出来事でした。


息子の座っていた席に娘を座らせて、私は「百番目のサル」の続きを読むことができたというわけです。



心理学者のユングは、このような出来事を『シンクロニシティ(共時性:意味のある偶然の一致)』と呼びました。「万物は、一定時間の間、『気』のエネルギーによって互いに一つに結びつけられている。つまり同じ時間帯には、空間全体に、すべてのものを一つに結びつける同質のエネルギーがしみとおって働いている。したがって遠く離れているように見える事物の間にも、お互い同士共鳴し、同調するようにさせる見えない力が働いている」というのです。


一方、私たちは普段『因果律』の世界を生きています。


『因果律』は時間とともに現象が変化していく過程が問題になりますから、日常生活において、こうした観点から現象を見ている限り、空間的な共鳴・同調現象に注意が払われることはあまりないように思われます。



道元禅師は「ほとんどの人は、時間は過ぎ去りゆくと思っている。本当は、時間はその今あるところにとどまっているのだ。人間は時間を過ぎ去っていくというところからしか見ていないので、時間が今あるところにとどまっていることが理解できないのだ」と述べているそうですし、アインシュタインは「過去、現在、未来を切り離す区分は、全くの幻想としての価値しかない」と語っているそう
です。



いよいよ21世紀も本番を迎え、新しい文明が芽生えようとしています。『宇宙―気―心(人間の感性)』の三位一体が求められ、空間的な共鳴・同調現象が世界中に広がっていく―素晴らしい時代が始まろうとしているように思われます。


「シンクロニシティ」からますます眼が離せません。


※本原稿の一部は、『《楽々シンクロ人生》のすすめ』から抜粋しました。併せてお読みいただければ幸甚に存じます。


参考文献:
*ケン・キース・ジュニア『百番目のサル』佐川出版


  


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2019年10月01日

意味のある偶然の一致“着いた、着いた。目的地に着いた”

私どもは「元気の力を暮らしに生かす」を社是とする会社でございます。『元気』というのは、“自我を超えた宇宙の働”と思われますので、“自然に学び、自然に帰る”をモットーとして、日常活動の指針とさせていただいています。


『気』をテーマとする仕事をしていますと、「偶然にしては、実にタイミングがぴったりで、うまく出来ているなあ。不思議だなあ」と思わざるを得ない現象に出合うことがあります。“共時性(シンクロニシティ)”と呼ばれる現象ですが、科学性、論理性を超越していて、世間一般的な見方をいたしますと、“おかしなことばかり言う、いい加減な奴だ”と言われかねません。


私たちが生活している「この世」には、因果律という法則が支配している、すなわち原因があってこそ結果が生じると信じられています。しかし人間の脳は、宇宙を創造し宇宙を動かし続けている波動に共振する可能性、すなわち、この世の掟ともいえる因果律を超越した、真の創造性を秘めた存在なのかもしれないということに気づかされます。



“シンクロニシティ”という言葉は、20世紀を代表する心理学者の一人、カール・グスタフ・ユングによって生み出された言葉と言われています。ユングの患者の一人に、自分にとって都合の悪いことは何でも意識から除外してしまう治療の困難な女性がいました。ある日、治療を行っているとき、昔、ある男から、甲虫をデザインした高価な宝石をプレゼントされたという内容の話をしていたのだそうで。ユングがこの話を聞いている時、後ろの窓をコンコンとたたく音がしました。


ユングが振り返ってみると、大きな甲虫が窓ガラスに体をぶつけている所でした。ユングは窓を開けて、背中が虹色に輝く甲虫を捕まえて「さあ、これがあなたの虫ですよ」と言って、その患者に渡しました。夢で見たのと同じ虫を見たその女性患者は、自分独自の世界観が音を立てて崩れ去っていき、これがきっかけとなって、ユングの治療を素直に受け入れるようになったのだそうです。



こうした“偶然にしては意味のある出来事”を、何回も経験したユングは、「シンクロニシティ」という言葉を創りだしたと伝えられています。
私たち現代人も、人生の途上において、このような“偶然にしては、何か意味を感じるなあ”と思わざるを得ない“偶然の一致”を体験するのではないでしょうか?



土の働き


私も人生の道中で、さまざまな“シンクロニシティ”を体験いたしましたが、中には、土地すなわち『土』も仲間なのかもしれないという体験を数多くしています。仕事にも関連していますので、あえてご紹介させていただくことにいたします。


《その1》
 もう40年以上前のことです。新しい仕事をするために、京都府南部の木津という田舎に引っ越してきたのですが、住むところがないので、会社の倉庫を少し改良して家族とそこに住んでいました。ある時、2階の別の部屋の窓から、外を眺めていると牧田工業(仮名)という建築会社の土地と小さな建物があるのに気づきました。その晩、夢を見ました。社長の牧田さんに「あの土地を譲ってもらえないだろうか」と夢の中で声をかけると、牧田さんは「ああ、いいですよ」といとも簡単にOKの返事だったのです。目が覚めてそれが夢であったことがわかり、がっくりでした。


次の日、用事があって、近鉄電車で難波まで行くことになっていました。そして途中の「大和西大寺」という駅で、「難波行」の電車に乗り換えるために階段を降りていくと、そのホームに牧田さんが立ってこちらの方を眺めておられるではありませんか。目がばっちり合ってしまいました。


そこで一緒に特急電車に乗り、運よく隣の席が空いていましたので、そこに腰を掛け「あの土地、譲っていただけませんでしょうか?」と声をかけると、「ああ、いいですよ」と夢と一緒の答えが返ってきてびっくりしたのが思い出されます。


そこに自宅を建てて、今でも住んでいるというわけです。時々「人生、どうなっているのだろうか?」と思うことがあります。どうなっているのでしょうね?



《その2》
 トータルヘルスデザインを創業する2〜3年前のことです。当時、工場を建てるつもりで、岡山県に土地をもっていました。しかし「もうその仕事はやめにしたい。その土地を売って、新会社の設立資金にできれば良いな」と思っていたところ、何も言っていないのに、その土地のある役所の方から「あの土地、引き取りましょうか?」という電話が入り、びっくりしてしまいました。


おかげさまで、スムーズに事が運び現在に至っているというわけです。



《その3》
10年ほど前のことになりますが、京都の鹿背山という、お客様にお越しいただくには、大変不便な地に事務所を構え、仕事をしていました。不便な上に駐車場も狭く、「何とかしなければ・・・」と思っていたのですが、そんなある時、農業を営んでおられるA氏が「近藤さんに紹介したい人がいる」と言って、ご近所にお住まいの木津のことに詳しいM氏と一緒にお越しになりました。そこで、M氏に何気なく「どこか良いところがあればご紹介ください」と依頼しました。


社屋を建てたばかりの時で、お金もスッカラカン、転居するどころではなく大変だったのですが、何故か「次のようなところで仕事がしたい」ということが念頭にありました。
「①千年の都としての伝統をもつ『京都』②21世紀に求められるのは『大いなる和』、すなわち『大和』の地③弥栄、弥栄。高次元エネルギーの降り注ぐ『イヤシロチ』④お客様にお越しいただくにも、便利なところ」
―そしてご紹介いただいたのが、“高の原”にある現在の京都本社の土地なのでした。


『原』の語源は“波羅”すなわち極楽浄土のことだそうです。般若心経には、『ギャーティギャーティ波羅ギャーティ(“着いた、着いた。目的地に着いた”)』と詠われています。“高の原”すなわち『高次元エネルギーの降り注ぐ弥栄の地』で皆様のお役に立ちたい、と社員一同切に願っている次第でございます。


参考文献:
*河合隼雄「ユング心理学入門」培風館

  


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2019年09月01日

心と体とクォンタム

“早起きは三文の徳”という表現がありますが、朝早く起きるということは気持ちが良いものですね。私たちが、なんだかんだと理屈をつけながら生きているこの都会の人間世界がまだ眠りこけている、その背後に・・・・・・こんな気持ちの良いイノチの世界があるということに気付かされます。


そのくせ、朝早く起きることには抵抗感があって、ついつい寝床の中でグズグズしてしまうというのは、一体どうなっているのでしょうか?


この地球上には、サルやイノシシ、鳥や魚など実にさまざまな生物が、ジャングルや空、海など固有の環境に棲みついていて、その環境から飛び出すことはできません。人間だけは違いますね。住み心地が悪くなってきたら、身の回りの環境を変えていくことができるのですから、神様あるいはこの大宇宙から素晴らしい能力を授かっているというわけです。


ところが良いことばかりではありません。


自分たちが発明し、作りあげたさまざまな道具や機械を使って、身の回りの環境を自由自在に改変した結果、現れたのが『環境汚染』です。


私たちが生きている世界は、元はと言えば自然な環境であったものが、気がついてみると、すべて人工のものに置き換わってしまった、自然界のもつあたたかいイノチの世界がどこかに行ってしまった・・・・・・そんな世界に囲まれつつある、というのが現代に生きる私たちの実態ではないでしょうか?


『令和』という元号からは、“私が生きている”という以前に、“そこにイノチがある。そのイノチは大宇宙いっぱいに広がっている”というメッセージが伝わってくるように感じられます。


人間の根本の特質は“直立することによって広い展望をもつ”ことができるようになったことだと思うのですが、環境を自分の都合の良いように変えることによって、自分中心の世界を創り、自分を閉じ込めってしまった結果、本当に“生きたもの”“自然”に触れることがなくなりつつある、というのが実態ではないでしょうか?


令和時代には、「少子高齢化」と「人口減少」が重なるというシビアな現実も指摘されています。天命を全うすることによって、自分に与えられた長寿を楽しむことこそ私たちの務め・・・・・・そんな世界を展開したいものですね。



クォンタム・ヒーリング


私たち人間の原材料を追求いたしますと、これ以上分割できないクォンタムという単位に行きつきます。あらゆる形のエネルギーがクォンタムを最小単位としていて、その中で波動が発せられたり吸収されたりしていることが知られています。



世界各地で奇跡的な治癒が報告されていますが、ディーパック・チョプラ医学博士は『内的意識の力がヒーリングのメカニズムの中で劇的な飛躍―クォンタム・リープ―を促しているように感じられる。癌が治るのも、折れた腕が治るのも、意識が治すから治るのです。成功した患者は、自らの治癒力を引き出すことを習得したのです。一部の人々は、クォンタム・ヒーリングの秘訣を発見したのです。彼らは心と体の結びつきを具現した天才です。ヒーリング反応を習得するためには、心と物質の接点、意識が初めて効力をもち始める点に到達しなければなりません』と述べておられます。


1970年代にオハイオ大学で行われた心臓病に関する研究で、ウサギの動脈を塞ぐために大変有毒な高コレステロールのエサが与えられました。ウサギにはしかるべき結果が出始めましたが、一つのグループのウサギだけ症状の現れ方が60%少ないのです。


ウサギの生理機能からは説明できなかったそうなのですが、このグループのウサギを担当している学生がウサギを撫でたり可愛がったりするのが好きなことが偶然わかったそうです。彼は餌をやる前に数分間、ウサギを一羽一羽優しく抱いていたのです。このような免疫能向上の原因となるメカニズムはまだわかっていないそうです。


治癒器官すなわち体を治癒するための役割を果たす器官が存在するわけでもないのに、体はダメージを受けた時に何をするべきかを知っているというのですから、不思議なことですね。体がそれ自身の心をもっているのかも知れませんね。医学的に見れば、心というものはフィクションにすぎないと主張する専門家も少なくないのだそうです。私たちが病気だと思うとき、本当に具合が悪いのは脳だというわけです。



心と体に宿る叡智


一体、心とは何なのでしょうね?


私たちの身体を含めて、形のあるすべての原子の内部は、99.999%が虚空になっているのだそうです。この銀河宇宙と人の体を分ける境界線は何なのでしょうか?


光は、ある瞬間においては波動であり、ある瞬間においては光子であることが知られています。同じようなことが私たちの体内でも起こっているのだそうです。


私たちが何かあること、たとえば桜の花のことを考えたとします。“桜の花”をめぐる思考がある時、ある場所に突然現れると、それによって何万という脳細胞が一瞬にして、神経伝達物質をつくるというのですから、すごいことが行われているわけです。


心と体が一致協力して思考を物質に変換するということですが、さまざまな奇跡的な現象が報告されています。


この大宇宙においては、物質でもない、エネルギーでもない何か特別な状態が存在するのかも知れませんね。量子の世界から目が外せないのではないでしょうか?


医学博士であるチョプラ氏は「医師は皆、『病気を治すのは自然だ』ということに気づいています。・・・・・・微量のホルモンやメッセンジャー酵素の秘密を求めて知識をドンドン細かく砕いていったとしても、『叡智』というタンパク質の分子は見つからないでしょう。それでも叡智はまちがいなく働いているのです」として「叡智は私たちの体のどこにでもある」と述べておられます。


私の子供のころ、類まれな治癒能力をもった〝おばちゃん〞がおられました。元産婆さんだったのですが、その人に30分から1時間ほど手当をしてもらうと、身体がものすごく楽になり、疲れなど吹っ飛んでしまうということで、多くの人から引っ張りだこでした。


おへその下あたりに手を置いて、じっとしておられるだけなのですが、ものすごく楽になるのです。


私たちの心と体の中を流れている『叡智』が呼びさまされ、神経伝達物質をはじめ、体内のさまざまな伝達分子が働き出したのではないか、とそんな感じがいたします。


『心と体』の一体化・・・・・・私たち現代人に求められる大きなテーマではないでしょうか?


参考文献:
*ディーパック・チョプラ『クォンタム・ヒーリング』
春秋社(上野圭一監訳 秘田凉子訳)

  


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2019年08月01日

『令和』が生み出す輝く未来

『令和』という新元号が制定され、いよいよ新しい時代が始まろうとしています。「令和」という言葉は、日本最古の歌集『万葉集』の「梅花の歌」に由来していて“すべての日本人が、明日への希望を心に抱いて、大きな花を咲かせる”という願いが込められていると言われています。


初春の令月にして、
気淑(よ)く風和らぎ、
梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭は王凧後(はいご)の
香を薫(かをら)す。



現代に生きる私たちも、希望に満ち満ち“大きな花”を咲かせ、世界に貢献したいものですね。



これまでの日本の元号は、すべて中国の古典に由来していたのですが、『令和』は初めての日本語由来の元号となるのだそうです。


首相官邸で発表された『令和』の意味につきましては、


春の訪れを告げ、
見事に咲き誇る梅の花のように
一人ひとりが明日への
希望とともに、
それぞれの花を大きく
咲かせることができる、
そうした日本でありたい
との願いを込め、決定した。


と報じられています。(日経新聞2019年4月2日号より)



「令」という字は、“跪いて神意を聞く人”の形をしていて、神のお告げ、その神意を「令」というのだそうです。「令」というのは、艶があるように美しいこと、すなわち人間にとって一番大切な“命”を指していて、その昔“命”は「令」と書かれていたのだそうです。


 『令和』というのは、“神(大宇宙の真髄)の前にひざまずいて、神すなわち大宇宙のメッセージを聞く”、つまり“人間性の尊重と共生社会の創造をテーマとする時代が登場しつつある”ことを意味しているように思われます。


人々が美しく心を寄せ合う中で文化は生まれ育つのだと思います。“梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように”…『令和』という言葉から、そんなメッセージが発信されているのではないでしょうか?



「元号」と日本人


話は一転いたしますが、私たちの生活を支えてくれているデジタル指向の金融資本主義という世界は崩壊し、新しい社会が誕生しつつあるように思われます。私たちが生活を営む上で、お金こそ全てといってよいくらい、お金はありがたい存在なのですが、その富の源泉ともいえる自然界のアナログ環境を破壊することによって、旧来の“金融資本主義”は進化し、お金は活用されてきたように思います。


その一方で、お金というのは交換の手段であって、そのものには普遍的な価値はないということが当たり前になり、資本主義は新しい道を模索することになります。そして今や、自然環境を破壊することなく原料を調達し、優れた商品を作り、生活環境を汚さないという科学技術のあり方が、極めて大切な“産業資本主義”という時代を迎えつつある、といってよいと思います。


このように観てまいりますと、私たちを取り巻く生活環境は、ここに至って大きく変化していかざるを得ないことに気づかされます。



私たちの一日は朝起きた時から始まります。


「お早うございます」の一声から、まったく新しい一日が始まるわけですが、どの一日もいつもと全く同じ一日であるということはありえませんね。植物や動物の場合、身の回りには、自分が生きていくのにふさわしい固有の環境があります。魚は水の中で泳いでいますし、動物はジャングルの中、鳥は空という風に決まっていて、そこから飛び出すことはできません。


人間の場合、遠隔地で生活している異文化の人たちとも交流しつつ、道具や機械を使うなどさまざまな工夫をこらして、身の回りの環境を変えていくことができるわけですが、良いことばかりではありません。生活空間からその土地特有の自然が姿を消し、生きたものに触れる機会がなくなり、身の周りは、鉄道、高速道路、高層ビルやマンションなどなど人工的に作られたものばかり、というのが現実になりつつあります。このようにして、人間は何百年、何千年かけて、自分の都合の良いように環境を作り変え、作り変えして、現在に至っているというわけです。



清々しい『令和』の響き


日本人は大災害に遭遇しても略奪や暴動に走ることなく、お互い助け合って秩序ある生活空間を維持しています。日本民族が家族のように一体となって平静な状態を保っていることのできる背景には、長きにわたって「元号」が日本人の心に根付いていることも影響しているように思われます。


日本の元号は「大化」(西暦645年)から始まったと言われています。「大化の改新」で知られていますが、外部の脅威を目の前にして中央集権国家を築き上げ、一体となって団結し国難を乗り越えてきた歴史があります。「大化」に負けず劣らず、新しい伝統を生み出し進化していくことが、『令和』の時代を生きる私たちには求められているのだと思います。


新元号の考案者とみられている大阪女子大学名誉教授の中西進氏は「令嬢という言葉もありますが、神秘を感じる美ともいえます。そこには尊敬や畏敬の念もあります。抱きしめたくなるような親近感をもたらす美ではなく、荘厳に輝く美をもっともっと発見していくことを新時代に望みたい。明治も大正も、元号はある意味で政治の方針でした。『令和』は初めて国民のスローガンになりうるのではないか。」と述べておられます。さらに「『和』には平和を願う心が込められているように感じれる」という感想に対して「戦争の悲惨さをもっと知ってほしい。憲法9条をノーベル賞にとか原爆反対への声が日本からもっと起こっていいでしょう」と述べておられます(京都新聞2019年4月27日の記事より抜粋させていただきました)。


「元号制度」を持っているのは世界中で日本だけと言われています。苦しいときこそ、国と民族が一体となって乗り越えていく……『令和』という「元号」にはそんな力が潜在しているのではないでしょうか?



本居宣長は“大和の心”を次のように詠っています。


敷島の 大和心を 人問わば
朝日に匂う 山桜花


(つづく)

  


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