2020年04月01日
土の力(2)
「土」をテーマとして、気になることをお伝えしたいと思い、あれこれ想いを巡らしていますと、「地球」という言葉が浮かんできました。
いま、気づいたのですが、「地」という字は「土なり(也)」と書きますね。当たり前のことですが、「地球というのは“土の球”である」ということに気づかされたという次第です。
「日本語には、微妙な気遣いが感じられるなー」と思うことが時々あります。
ここに、固い殻で身を守っている何かの種があるとします。この種を板の上に置いておいても何事も起こりませんが、土の中に埋めてやりますと、やがて固い殻が破れて、梅なら梅、桜なら桜が芽を出し大きな樹に育きます。「そんなことは当たり前」ということなのかも知れませんが、考えてみれば何とも不思議なことではないでしょうか?
明治以来、私たち日本人は、主として西洋由来の唯物論を主軸とする教育を受けて育ち、今日に至っていると言ってよいと思います。唯物論から少しはみ出すと、宗教臭いと言われたりするので、ついつい唯物論の枠組みから踏み出すことができずにいた、という現実があったような気がいたします。
そんな小さな枠組みにこだわるのはやめにして、新鮮な発想で楽しい日々を送りたいものです。ところが、私たちの日常生活には、何だかんだと小難しいことが沢山あって、隣の部屋に行くのにも固い扉でふさがれているという状況に出合うことがあるものです。
一方、人の内面には、肉体や思考、感情を超越した純粋な「可能性の場」が存在し、この「場」には不可能の文字はない、だからこの「場」を活用すればよいということになります。
何だか大変難しそうに聞こえるかもしれませんが、自然全体に「偉大な知性」が行き渡っていて、魂を通してその知性が現れてくる―「関心と意思」さえあれば簡単に扉を開くことができる―とも言えるのではないでしょうか。
「生きる」とは「場」を整えること、そして心が「内なる場」、コミュニケーションが「外なる場」ということになります。
さて、この「場」というものを考える上で、「存在レベル」についての視座をもつことが大切になると思われます。
その存在レベルには次のような3段階があると考えられるのではないでしょうか。
①第一の存在レベル=『物理的な領域』
『物理的な領域』とは、私たちが日常生活で直面している場のことになります。家庭や職場、人やモノが集まるところです。
②第二の存在レベル=『エネルギーと情報の領域』
『エネルギーと情報の領域』は、実体がないものですが、“張りつめた空気”“リラックスした安らいだ空間”などの言葉で表現されます。情報の中身はエネルギーのもつ振動数で決定されると考えられます。たとえば、喫茶店でお茶を飲みながら話している―――物理的な状況は同じでも、場によって、そこに流れる雰囲気が全く異なることがありますね。
③第三の存在レベル=『可能性の領域』
『可能性の領域』とは、物質を構成する極微小な構成要素である電子が、粒子として観測されるか、波動として観測されるか、人間の意識によって決定される場(※)のことを意味します。すべてのものの背後に“組織化する力”が存在すると考えられます。
※観測問題ともいわれる
『天の気』『地の気』『人の気』
さて“土”に話を戻すことにいたしましょう。
種というのは、固い殻に覆われていて、内向性すなわちエネルギーが内に向いていますね。他のものとのつながりは一切ありません。唯一、土壌すなわち“土”が種を発芽させ、花を咲かせる原動力です。美しい花を咲かせることができるプログラムをもった植物も、“土”のお蔭で見事に成長していきますね。
“土”は受け身、自分で何かしようとは思わない、すべて相手任せ。自我は存在しませんね。それでも梅は梅、桜は桜として発芽・成長し、大きな樹となり、花を咲かせます。
『イノチの力』はすごいのですね。私たちの眼も爪も手も足も、すべては、この瞬間に供給された宇宙のエネルギーを受け取り、自然の摂理に従って、その役割を全うしているのですから。
自分がなりたい姿、本質はすべて自分の種の中にあり、「天の気」「地の気」を受けて、土がそれを実現してくれるというわけです。
人間の子どもも泥んこ遊びが大好きです。裸足で土の上を走り回り「地の気」を浴びて大はしゃぎです
筍をはじめ、土から出てくるものは食べると美味しいですね。土から掘り出して時間が経つと、「気」が抜けてスカスカになってしまいます。
鹿児島県の最先端で玄米黒酢がつくられています。陶器でできた大きな甕に玄米と水を入れ、土の中に埋めて長期にわたって熟成されるのですが、人手を加えず一年、二年と月日が経つうちに、微生物の力で発酵がすすみ、エネルギーあふれる美味しい黒酢が出来上がるのです。
微生物を活性化する土のエネルギーのすごさにびっくり仰天させられます。
土について、このように思いを巡らしていますと、日本人の特性と共通する点がずいぶんあるなー、ということに気付かされます。
日本人は“「個」の都合より先方の都合を優先する傾向がある、自主性に乏しいのではないか。もっと自分を主張しないと・・・・”という意見をいろんなところで聞いたものです。
しかし思いやりをもって、全体そして相手の喜びとなる状況をイメージしつつ接していると、自分がなりたい姿(潜在意識すなわち“種の中にあるもの”)がエネルギーを得て現実化していく、ということが起こるのではないでしょうか?
人間関係の中で、いつしか『天の気、地の気、人の気』が働いて種が芽を出し、相手ともども望ましい現実が姿を現す・・・・そこにこそ日本人の本質を見出すことができるのかもしれません。