2012年08月01日

元気の力

マゼランが初めてフェゴ島にやってきた時、島の人たちは湾に停泊している船団の姿に気がつかなかったと伝えられています。沖に大型船が停泊しているにもかかわらず、何故彼らにはその姿を認識することができなかったのでしょうか?私たちの常識を見直す必要のあるテーマといえそうです。


原始の環境で暮らしていた島の人たちは、かつてそのような大型船を見たことがなかったので、意識にあがることもなかったからだという見方があります。意識に上がらないものは見ることはできないというのです。

 

人は、無数に存在する刺激の中から「意味」のあるものを選び出す“濾過膜のような働きをする知覚”にもとづいて行動をすると考えられています。


別の言い方をすれば、自分の意識の中にある設計図に含まれるものだけを見ているに過ぎず、まったく未知の物は見ていないということになります。


当時のフェゴ島の人たちが現実であると認識できるものは、彼らの文化や歴史、神話などによって決まっていて、その枠組みから外れるものは視界に入らないということだとすると、科学万能の現代に生きる私たちはどうなのでしょうか?


私たちが見ている現実はどうなっているのか気になるところです。


私たちが色を見たり、音を聞いたり、匂いをかいだ時に感じるのは、色や音、匂いそのものではなく、神経によって脳に伝えられる電気的パルスです。何かを見たときに、それが“みどり”に見えるのは、外界に“みどり”という色が存在するのではなく、ある周波数の波が脳に伝えられて、脳内で“みどり”という色をつくり上げているということなのです。


色や音、匂いは外部の世界にあるのではなく、人間の内部にあるのだとしたら、“形”についても同じことが言えることになります。暗くなりかけた夕暮れ時に、車の中にいる人の顔かたちが薄ぼんやりとしか見えていないにもかかわらず、その人だと気づくことがありますが、これは何を見ているのでしょうか?


何十人という多くの人の中から一人の親しい人をとっさに見つけ出すことができますし、後ろ姿だけでも瞬時にその人だと認識できることがあるものですが、考えてみると、これも不思議なことだといわざるを得ません。



見れども見えず


数年前に、「神々の指紋」で知られるジャーナリストのグラハム・ハンコックさんが来日された時、富士山のふもとにある遺跡や古文書を見てもらおうと思い山梨県を訪問しました。


快晴でくっきりそびえる富士山を間近に見ることができる素晴らしいところでした。


日本一の霊峰・富士の雄姿にすっかり感激して、私たちを案内してくれた地元の人に「毎日美しい富士山を見ることができて幸せですねぇ」と声をかけたところ「そういうと長いこと富士山を見てなかったなー」とつぶやかれ、びっくりした思い出があります。


「見れども見えず」という言葉がありますが、人の意識にないものは見ていても見えていないのだなということを実感した気分でした。よほど意識を明確にしておかないと、「見れども見えず」ということは、私たちの生活の中で日常茶飯事に頻繁に起こっているように思われます。


生まれつき盲目の人が、ある日突然目が見えるようになることがあるそうです。


その時見えているのは、まばゆいばかりの光の渦で、マルや四角などの形は一切わからないのだそうです。その人が認識してはじめて形が見えてくる、そのためには長時間を要するのだそうです。


ひょっとすると、意識にないものは存在しないのではないかとさえ思えてきます。


「外部」に存在すると思われている世界はすべて、人の内部すなわち共通の信念に支えられた幻想の枠組みの中にあり、人が直面している現実は、人が現実とみなしているものの総体であるという見方もうなずけるのではないでしょうか?


ある神話が多くの人たちによって共有されると、大きなエネルギーを獲得し、現実を生み出すようになるというわけです。現代社会は合理的精神に満ちていて、不合理なものは徹底的に排斥され、客観的な事実だけが真実の基準になって現在に至っているように見えます。


人々がアタマで考えて導き出した「合理」の枠組みからはみ出るものは「不合理」であるとして無視するのが現代社会の合理的精神といってよいと思います。


しかしいまや、合理的精神は人間に内在する意識進化のエネルギーのうねりを受けて衰退しつつあるように思われます。大激動時代を迎えているのです。



気は心


自然界には現代人がアタマで考える「合理」を超えて、自然の摂理にもとづく、はるかに偉大な合理すなわち「天の意思」が存在していると考えられます。


そのような「天の意思」が自分たちの身体の中にも生まれつき潜在しているという直感と信頼に立って、いまでも多くの人が信じる道を歩み、独自の技を追求し達人の境地をエンジョイしておられます。


特に日本には「勘」とか「手ごたえ」を大切にしてきた伝統があるといってよいと思います。


この大宇宙のことをマクロコスモスと呼び、これと同じ働きをする小宇宙(ミクロコスモス)が人の身体の中にも存在しているという宇宙観・人間観は万国共通で、人間には宇宙をも道連れにしてしまう莫大な力と叡智が与えられているということに先人は気づいていたようです。


近代合理主義精神は「理性」を人間の価値の最高峰においたために、霊的な力を発揮することが妨げられていたのだと思います。


都会に生活する現代人は夜空を見上げることもあまりなく、見上げたとしても、そこにあるのは理科の教科書で習った星が点々と散らばっている機械的な空でしかないようなのですが、その一方でいま、未知のまま放置されていた宇宙の神秘がよみがえりつつあるようでもあります。


人には大宇宙いっぱいに広がる“心”をわが心として、自由自在に使う力が与えられているといってよいと思います。日本では古来、多くの人が『気は心』という言葉を無意識のうちの使っています。心は傷つきやすいので、そっと内に秘めておいて、心に思うことを『気』として外部に発信しているというのです。


心には発信器が装備されていて心模様を波動に変換し『気』として発信していると考えればよいと思うのです。


人が発信する思い(気)の周波数と宇宙の周波数が同調し、新たな現実が形成されることになります。 『気』は人間の本質に組み込まれている何ものにも代えがたい大切な要素で、『気』の活用はこれから本番を迎えるように思われます。




Posted by THDstaff at 10:00