2018年03月01日

常識を超えて

私どもでは毎年11月の初めに【新生祭】という、一風変わったお祭りをしています。


何十年も生き続けていると、誰でも大なり小なり、殻が身について、それが自分だと思ってしまう傾向があるのではないでしょうか?


誰もが、そんな殻を捨て去って、いきいきと新しい自分を生きていきたいものだ、と思うことがあるのではないでしょうか?


【新生祭】というのは、そんな古い自分には静かに退場していただいて、これからの人生をイキイキわくわく生きていこうという誓いを胸に新しい自分に生まれ変わろうではないか、という趣旨のお祭りなのです。


赤ちゃんは生まれてくるとき、周りの人から「おめでとう、おめでとう、お誕生日おめでとう」と声をかけていただき、喜びの波動につつまれて生まれてくるのが常と言ってよいと思います。ご両親は、この子が幸せになることを祈って、良い名前を付けてあげようと思いを巡らすのではないでしょうか?


このようにして、この子の人生がスタートし、やがて個性が芽生え始めることになります。


ところがです。不思議なことに、お目出度いはずの誕生日の【誕】という字には、”偽り”という意味があるのです。


これは一体何を意味しているのでしょうか?


無事に誕生した子どもは成長するに従い、やがて、その子なりの個性(パーソナリティ)が身についていきます。


戦後ある時から、【農耕民族としての日本人は“個性に乏しい”ようだ。これからの時代、必要なのは豊かな個性だ。個性豊かな子どもに育てようではないか】という気風が出てきたように思います。


都会化が進むにしたがって、豊かな個性が高く評価されるようになっていったのですが、個性とは一体何なのでしょうか?


個性(パーソナリティ:Personality)の語源は、【ペルソナ】というラテン語に由来していて、古典劇で役者が用いた【仮面】のことだと言われています。


両親はその子の幸せを祈って、習い事をさせたり、塾に通わせたり、時には「男らしくしなさい」あるいは「あなた!女の子なんでしょう。はしたないことをしてはダメ!」と叱りつけたりしながら、子どもを育てていくのが常と言ってよいと思います。


周囲にうまく適合するため、例えば【男らしさという仮面】、【女らしさという仮面】を身につけ、私たちは大きくなってきたわけです。


うがった見方をいたしますと、私たちは、【本来の自分】を置き去りにした上で、偽って生まれ、仮面を身につけて、人生という修羅場を渡っているということになりますね。



新生祭


私の高校時代の同級生に杉浦清始というお坊さんがおられます。その昔、バリバリの証券マンだったのですが、ある時から僧侶に変身、修業を積むことによって大変貴重な高次元能力を授かり、晴れ晴れとした明るい人生を渡ってこられたお坊さんなのです。


高校卒業後、何十年もしてある時、彼と出会うことになったのですが、彼のサポートを受けると、今の肉体をもったまま「仏」を体験することができるということがわかりました。


「仏」とは、自由自在の状態でありながら、勝手気ままに生きることなく、何ものにもとらわれることのない、自然に由来するあり方を指しているのだそうです。


知らず知らずに身についた、“怒り・不安・心配・恐怖心”などの縛りを開放することにより、意識が福々しくなっていく、そんな人生を送ることができるということに気づかされました。


――和尚とお付き合いをするうちに段々と話が進展していき、「生きているうちに生まれ変わりのイベントをしよう。そしてその日を境に心機一転、全く新しい心構えをもって新しい人生を切り開いていこう」ということになりました。


もう8年くらい前のことです。


それ以来、毎年、11月になると、特定の会員がモデルになって、生まれ変わりのイベント【新生祭】を開催させていただいているというわけです。


主役を前にして和尚がマントラをとなえ、参加者一同は静かに黙想し、その【場のエネルギー】を全員で共有するわけです。参加者全員で意識を深め古い殻を脱ぎ捨てる――そんな会なのです。


【場】の力


子どもの頃、お正月になると、近所の人と一緒になって、「花札」をやったものです。いまでも覚えているのが「場六・手七」という言葉です。「花札」をやる3人の人が、手札として7枚持ち、場に6枚並べたのでそのように言っていました。


「花札」にかんかんになった子ども時代の体験から、私の場合、【場】と言うと部分ではなく、みんなと共有する全体的なスペースというイメージが浮かんできます。


ひるがえって今、私どもトータルヘルスデザインでは住む【場】(居住空間全体)を、生命力に富んだ癒しの、【場】(空間)にする仕事、すなわちイヤシロチ(弥盛地)創りに取り組んでいます。【良い場】づくりですね。


少し堅い話になりますが、物理学では、【力】が存在するところには【場】が存在し、その力を媒介している「素粒子」と「波動」が存在するととらえています。


地球の周辺には、地球の重力場がありますから、2階の窓から荷物を投げると地面に落ちるということになります。


人間の場合、独特の生命活動を営んでいますので、もう少し複雑になります。


人体にしても、足や手・内臓など、単に部分が集まって全体が出来上がったというだけではなく、心と体が一体となって、全体としての【場】を形成し、自らを癒しながら生命活動を営んでいるととらえる必要があるわけです。


さらに、私たちは「本来の自分」ではなく、偽って生まれてきて仮面を身につけて人生を送っているのだということになると、何だか、「この人生には、何の価値もそして何の意味もないではないか」ということになりかねませんね。


しかし人生を「本来の自分に巡り合う旅」と定義するなら、「本来の自分」とは全く違う自分として「仮面」をつけて生まれてきて、数々の試練を乗り越えつつ、最後に「本来の自分」を探り当てるという「場」が設定されていることは大きな意味をもつということになります。


「善人なおもて往生をとぐ

いわんや悪人をや」という表現があります。「善人として生まれ、善人として人生を全うし、仏様のようになっていく」というのは素晴らしいことに違いはないのでしょうが、「悪人として生まれてきて、皆に嫌われ、散々苦しい目にあいながらも最後には、仏様のようになっていく」人生には、別次元の喜び、別次元の価値がある、と言えるのではないでしょうか?


「仮面を脱ぎ捨て本来の自分を生きる」・・・新時代のキーワードといえるのではないでしょうか?




Posted by THDstaff at 10:00