2013年09月01日

9月 つながり(6)

未曾有の高齢化社会を迎えた今、還暦を過ぎて60歳以降120歳にいたる60年間、すなわち「大還暦」の時代をどのように生きていくのかということは、現代人そして現代社会の抱えている非常に重要なテーマだと思います。


現代社会においては「死」のことを語るのはタブーになっているようなのですが、今の社会状況を考えますと、そんなことを言っている時ではないと思うのです。「人は生きたようにしか死なない」という言葉がしばしば語られますように、人生のゴールについて一つの見識を持っておくことが求められているといってよいと思います。


過日、仙台の歯科医・大久保直政氏の主宰される仙台天命塾と、チャレンジPPK共催の研修旅行会があり、岩手県の遠野地方と宮沢賢治の里、縄文遺跡などを見学してきましたので、一部ご報告させていただきます。


柳田国男の「遠野物語」に蓮台野の話が出てきます。その昔、岩手県の遠野地方のお年寄りは、60歳になると若い人たちに別れを告げ、人里離れた山で自給自足の生活を送ったそうなのですが、「遠野物語」にはその様子が描写されています。


「楢山節考(ならやまぶしこう)」を思い出しますが、この地で老人たちは、毎朝与えられた畑に野良仕事に出かけていき、自分が食べる作物を栽培し、夕方には仕事を終えて帰ってくるという自給自足の日々を送っていたのだそうです。「蓮台野」というのは、60歳になって村を去った老人が、自然な死を待つ野辺送りの地を指す言葉です。


老人が毎朝、畑に出かけていくことを“ハカダチ”、夕方になって戻ってくることを“ハカアガリ”といったのだそうです。“働かざるもの食うべからず”というイメージが伝わってきますが、高齢者をどのように遇するのかというのはいつの時代でも避けて通れないテーマだったのだと思います。



「あの世」と「この世」


“蓮台野”というのは「あの世」と「この世」の境界にある場所を意味しているようなのですが、この地名にも特別の思いが込められているようです。


“蓮台”というのは蓮の花の形につくった仏像の台座を指す言葉なのだそうです。また“台”は農作を始めるという意味があり、“野”は都会に対して田舎を意味しています。


“蓮台野”という言葉からは姥捨てのような暗くてみじめなイメージは浮かんでこないのではないでしょうか?池の水面に美しい“蓮”の花が咲いています。蓮の花は個々別々に咲いているように見えますが、それぞれの茎は泥の中で一つの蓮根につながっています。


蓮の花が水面で美しく咲いている様子を「この世」とすると、池の底で一つひとつの蓮の花を生み出している蓮根は「あの世」にたとえることができます。


「この世」では、個々別々の美しい花を咲かせる蓮なのですが、蓮を生み出す原因の世界すなわち「あの世」には個々別々の姿はなく、みんな一体となっていて、そこから蓮の花は生み出されます。寿命が尽きると蓮の花は「あの世」に帰っていきます。「あの世」では個々別々に生きていくのではなく、みんな仲良く一つのイノチすなわち蓮根として生きていくことになります。


そして時期が来ればまた「この世」にやってきて、蓮の花として“生”を謳歌するのです。


“蓮”というのは「一つのイノチ」の象徴として語られる植物ですが、「蓮台野」という地名からは、みんなやがて「一つのイノチ」の故郷に帰っていくのだという意思が込められているのを感じるのではないでしょうか?


私たち人間も同じなのですね。みんな別々のイノチを生きていて、街角ですれ違う人は皆、アカの他人のように見えますが、実は深いところでつながっていて、最終的には一つのイノチを共有しているということになります。


しかし私たち人間と蓮の花とでは決定的に違う点が一つあります。人間は、その人だけに与えられた独自の役割すなわち天命をもって、この世に誕生するという点です。この地球には70億の人が生活しているのですから、70億の魂がそれぞれ独自の天命をもって誕生し、成長し続けているということになります。


独自の役割をもって成長した一つひとつの魂が、その成長の過程で学んだ成果をお互いに持ち寄り、全体として一つに融合していくのです。人生体験を通して個々別々の魂が得た成果を人類全体の魂として一つに集約し、共有することによって人類は大きく進化し、新たな地平に立つということになります。これはすごいことだと思うのです。


体験に優劣はなく、誰もが人類全体の進化につながる価値ある体験をしているということになりますね。「あの世」と「この世」という表現は、ゴールとスタートを指していて「人生とは何か?」を考えるとき、避けて通れないテーマなのですが、なぜかタブーになっていて、人は日常的な話題にすることを避けて通っているように思われます。



「暗在系」と「明在系」


現代科学は「あの世」と「この世」についてどのようにとらえているのでしょうか?物理学者デビッド・ボームは「暗在系」「明在系」という概念を提起しています。


デビッド・ボームは、私たちの眼に見える宇宙(明在系)の背後に眼に見えない宇宙(暗在系)が存在し、この眼に見えない宇宙(暗在系)の中に時間も空間も物質も精神もすべてのものがたたみこまれているとしています。あらゆるものは「暗在系=あの世」から「意味の場」を通って「明在系=この世」に出てくるというのです。


私たちの住んでいる物質宇宙(明在系)は、眼に見えない波動としての宇宙(暗在系)から一瞬一瞬生まれてくるのですが、そのとき「意味の場」を通ってくるというのです。


古い物質はどこへ行くかというと、一瞬一瞬消滅すると同時に波動の世界に変換され、次の瞬間には真新しい物質として生まれ変わるというのが私たちの宇宙の本質ということになります。


仏教には、刹那消滅という言葉がありますが、指ではじく短い時間の間に65刹那があるということですから、生成消滅はあっという間なのですね。


“蓮”の話に戻ることにいたしましょう。池の表面に咲いている蓮の花は「この世」の存在を象徴しています。「この世」からは見えない池の底に存在する蓮根は、物質世界を作り上げている波動の世界、すなわち「あの世」を指しています。


人の住んでいる“この世”が一瞬一瞬消滅し、次の瞬間に生まれ変わって新しい“この世”の姿を見せるというのは信じがたいことのように見えますが、宇宙に満ちている眼に見えない波動が人の意識(意味の場)を通して眼に見える物質世界を形成しているというのがデビッド・ボームの見解です。


人の体はどうなっているのでしょうか?


私たちの体は、頭や首、内臓そして手足などの組織が集まってできています。もっと細かく観ていきますと、これらの器官は細胞でできていますし、細胞は分子、分子は原子、原子は素粒子、そして究極的には“空”の世界にたどり着きます。


“空”の世界とは波動の世界です。1個の光の粒子を、10個の孔があいているついたてに向かって発射します。光子は波動として進みますので、すべての孔を通過します。


今度は、光子がどの孔を通ったかを確認するために観測装置を設置して、確認しようとすると、光子は波動として振る舞うのをやめて1個の粒子に変身するため、1個の孔しか通らないという結果になるのだそうです。観測する、すなわちヒトの意識が関わると光子は波動として振る舞うのをやめて、粒子になるということが明らかにされたのです。


「この世」、すなわち物質世界を創りあげている原材料は“意識”ということになります。


【参考文献】
立花大敬《しあわせ通信》第一集『心はゴムひも?!』(本心庵)




Posted by THDstaff at 10:00