2013年10月01日

10月 仰ぎ見る存在

世界遺産に登録されたことで富士山が脚光を浴び、大騒ぎが続いているようですが、日本人にとって富士山はどのような存在であったのか、そして先人から現在に至るまでどのようなイメージが引き継がれてきたのかについて、考えてみたいと思います。


富士山を通して、変化する日本人の姿が見えてくるように思うのです。


まず浮かんでくるのは“霊峰富士”という言葉です。


子どもの頃の記憶ですが、「一生に一度は富士山に登るものだ」と言われていて、なんだか非常に有難い山だという印象がありました。そして登るときには“六根清浄、六根清浄”と唱えながら、人はひたすら頂上を目指すのだと聞いていました。


六根というのは「眼、耳、鼻、舌、身、意」を指す言葉です。人間の根っこにあって感覚や想念を生じさせる最も根源的な六つの器官ですが、日々の暮らしの中で生じる人間の欲によって曇ってくると、この世の真実が分からなくなるものです。


欲を断つことを誓い、霊峰富士がつくり出してくれている“場”の力を借りて、六根を洗い清めて本来の純粋で美しい姿を取り戻そう、そしてぴかぴかの赤ちゃんのような輝きを取り戻し、新たな人生を生きていこうという誓いを胸に富士山に登るというのが、日本人の富士のお山にかける心意気だったのだと思われます。


魂を洗い清めてくれる富士山は日本人の崇敬の的だったのです。日本人にとって、富士山は“服するべき山”ではなく、“仰ぎ見る山”だったように思うのです。


心理学者のC・G・ユングは「光の来る瞬間が神である。その瞬間が救いを、開放をもたらす」と述べていますが、その言い方に習いますと「富士山が神である」というのではなく「富士山を見た瞬間に感じる“光”」が日本人の心の曇りを消去し、開放をもたらしてくれるのかもしれません。


京都から新幹線に乗って東京に向かいますと、静岡県の安倍川のあたりから進行方向の右前方に富士山が姿を現します。富士山は左に見えるものだとばかり思っていたのですが、あるとき意表をついて右手に富士山が見えてびっくりしたものです。


静岡駅を過ぎると富士山はすぐに左手に移動し、やがて富士川を渡る頃にはくっきりとその全貌を見せてくれますので、その日一日がさわやかな気分になった感じがするものです。


日本人に長年にわたって崇敬され続けてきた「富士は日本一の山」を満喫することで気分が晴れ渡ってきます。多くの人がこのような体験をしていらっしゃるのではないでしょうか?



富士のお山は不二の山


こんな美しく素晴らしい山はどこにもない、唯一無二の山だということで、富士山は、古来“不二山”と呼ばれてきたと言われています。


竹取物語によりますと、かぐや姫が宇宙に飛び立つ時にお別れにプレゼントしてくれた「不死の薬」を、帝は駿河の国の日本一高い山で焼いてしまいます。そのとき、大勢の士(武士)が「不死の薬」を焼くために山へ登ったので「富士の山」(ツワモノに富む山)と呼ばれるようになったのだそうです。


富士山という名前は「不死の山」に由来するという説がありますが、これも竹取物語に由来しているのだと思われます。富士山の雪解け水が、長い年月を経て湧き出す柿田川の水が特別な名水として知られているのも、不死伝説を象徴するものと言えるようです。


ずいぶん以前のことですが、富士山の底のほうにある洞窟から掘り出した土を掌につけてこすり合わせ、水で洗い流すと指の先から毒素らしいものが出てくるという体験をしたことがあります。またその土を入れたお風呂にガンなどの重病を患っている人が入ると、お湯がすっかり濁ってしまうと言われていました。きっと病人の体内に蓄積している毒素が土の力によって排泄されたのでしょう。富士山には人の心身を清めてくれる霊的な力、すなわち強い毒素排泄の力があるのかもしれません。


富士山に限らず、土にはイノチを支える絶大な力があるのだと思います。


「山の中では野生動物の死骸が見つからない」と言われるくらい、山の表土には不思議な力が宿っていることが知られています。山の表土を再現した土に生ゴミを入れておくと消えてしまうこともわかりました。いま人気の健康飲料『はじまり』は山の土の驚異的な力に触発されて開発されたのですが、土にはすごい力が秘められているのです。


心身を病む人が竹やぶの中を裸足で歩くと元気が回復すると伝えられていますが、竹の生命力と、その竹を生み出した土の力のすごさを物語るものだと思います。これは、現代科学の枠組みの中には入りにくい話ですが、自然のもつ癒しの力を改めて感じさせられるのではないでしょうか?


人間のイメージには新しいものを生み出す力があるのですから、富士山を単に物理的に高くて美しい山ということに限定せず、美しい日本そして日本人の象徴として、大切にしていきたいと思うのです。日本人の美意識こそが、ただ美しく雄大であるというだけでない、人間の六根を清めてくれる力をもつ霊峰富士を生み出したのだと思うのです。その富士山と一体化することによって育まれてきた日本人の美意識、そして霊性が再認識されることを願ってやみません。



ナマ情報と加工情報


IT、スマートフォン、SNS(ソーシャルネットワークサービス)など高度な情報伝達手段によって誰もが未知の情報にアクセスできる社会が誕生しつつあります。歩きながらわき目もふらずスマートフォンを操作する勉強熱心な(?)若者も増えてきているようです。


その一方で自律神経の失調に悩まされている人も急速に増えてきていて、大きな社会問題になりつつあります。高度情報化社会という言葉には、私たちに伝えられる情報が、高度になったかのような印象がありますが、情報の伝達手段が多岐にわたると同時に高度になったというのが本質です。


高度な情報機器を通して伝達される情報は、人の手を通して加工されたものであるということにも注意を向ける必要があると思います。新聞やTVをはじめさまざまな情報機器を通して、私たちは日常生活ではめったに出合えないような凄惨な殺人事件をはじめ、さまざまな出来事に出合うことがあたりまえになりました。


その一方で高層ビルの立ち並ぶ都会では、日の出、日の入りはもとよりお月様がどこに出ているかを自分の眼で見ることもほとんどなくなってしまっているという現実があります。自分の眼、耳、そして鼻などの感覚器官を通して得られるナマの情報と、誰かの手を通して加工された情報との区別がつかなくなってしまっているのが現状のように思うのです。


KJ法(※)で有名な東京工業大学名誉教授 故・川喜田二郎氏はデータの整理をするにあたり、そのデータが“土の香りのする”ことを重視しておられました。何か新しいものを創造しようとするとき、フィールドワークで集めた断片的なデータがウソかホントかわからないとしたら、あるいは誰かが頭で考えただけのデータをもとにプランを組み立てたりしたら、そのプランは、あてにならない、いい加減なものになってしまうことでしょう。


誰かの眼を通して評価された富士山ではなく、自分の眼を通して観たナマの富士山の姿を心に焼き付けておきたいと思うのです。グローバル化、そしてTPPなど西欧化の風にさらされる日本ですが、論理的思考では到達できない“仰ぎ見る存在”を心の中に宿しておきたいものです。


※KJ法とは、ブレーンストーミングなどによって得られた発想を整序し、問題解決に結びつけていくための方法です





Posted by THDstaff at 10:00